1974年〜76年(昭和49〜51年)御岳・蓼科・初冬御岳の思い出

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1974年の出来事:田中首相退陣・元日本兵小野田寛朗30年振りで救出・長島茂雄引退・・・・・

光と影(生と死)の思い出

1974年(S49年)12月 越年登山・御岳

吹雪の翌日Y先輩と摩利支天・後ろは乗鞍岳
 昭和49年12月28日、御岳へY先輩と登山。名古屋を前夜発夜行列車で発つ。御岳スキー場朝4時入山、トレース無し、ワカンを履いて夏道を行くが雪深く腰まで有るので、スキー場の縁を歩いて行く。曇空の下田ノ原へ。午後に8合目の避難小屋着。雪で半ば埋まる小屋の中へツェルトを張り泊まる。
 
 翌12月29日、吹雪模様の中8時に避難小屋を出発する、吹き溜まりと雪の表面だけ凍るモナカ雪を掻き分け掻き分け剣ケ峰まで辿る。最中雪は消耗が激しい、剣が峰12時過ぎ着積雪の為時間が凄く掛かっているに驚く。ピッケルにエビのシッポが付き始めてた。積雪多くて時間が掛かり過ぎているのだ。山頂部は雪が飛ばされ積雪は少なくアイゼンが良く利く。二の池小屋の脇を通り、賽の河原を進む。
 この頃には暴風雪(ブリザード)となり視界5〜6mしかない、春夏秋と歩き慣れているはずなのに、摩利支天へ進むはずがY先輩どんどん左へ左へと進んでる気がする。3m先の先輩を大声で呼んでも聞こえない、必死に追いついて再び二の池小屋まで戻る。
 小屋から真直ぐ北へ向かうが賽の河原は磁石が北を刺さない・おかしい。Y先輩が進む方向へ付いて歩く、歩くけどなかなか摩利支天から派生すり尾根に辿りつかない。賽の河原の石積と雪の平原を風に向かって歩き続ける。雪は飛ばされて潜らないがブリザードというんでしょか、只強風雪と戦う感じで吹雪く風に向かい歩く。二の池からもう大分歩いた気がする。
 後から考えると人は視界が無いと真直ぐ歩いているつもりが軸足のほうへ・左方へ向かい歩く様です。長方形の長辺を二の池小屋を右下の基点として左上の摩利支天へ斜めに歩いた。一度の二の池小屋までへ戻ったので余分な時間が経っている。
 午後3時を過ぎると辺りは夕暮れ時みたいに薄暗くなってきた。どうも左の方へ歩きすぎたようで摩利支天は右手だろうからY先輩を捕まえて風を左側に受けて右方へ歩く。大きな岩を見つけ風下へツェルトを張り中へ入り一息入れる。もう暗いのでここでビバークすることにした。
 2人共ブリザードの風に向かい・歩きずめで休んでいないし何も口に入れていないので疲れが激しい。一日がアットいう間に過ぎる濃縮された一日でした。
 Y先輩は何にも食べたく無いというので(何年かしてから聞くと全く覚えて無いそうだ)、少しヤバイかと思い餅と小豆の缶詰めでぜんざいを作り食べさす・旨かった。風音と寒さで良く眠れなかったと記録に有るが、思い出に残っているのは疲れて良く寝たみたいで朝が早くきた。
 
 12月30日夜明け前に吹雪きは止んでいて、外へ出ると剣ケ峰が月光で素晴らしくテラ耀いていた。泊まった処は摩利支天ピークの少し下・やや西南でした。夏道からはもう行き過ぎていた場所です。吹雪が収まれば何ということも無く、後は直ぐに五の池小屋へ到着。
 12月31日再び吹雪で小屋の中で一日中寝て過ごす。
 1月1日、朝から快晴、雑煮を食べ真白な斜面を濁河温泉八合目へ目指して直線で下る。下からの学生のパーテーが森林限界の上へ出てきたのでそこへ向かう。アアー何とか生きて帰れた。

 

1975年(S50年) 12月 蓼科山

蓼科山荘前。
 昭和50年12月27日、メンバーY先輩と管理人。茅野からタクシーで白樺高原へ入りスキー場よりわかんで蓼科山荘へ。小屋から先森林限界を超え吹雪の中を、わかんをアイゼンに換えウインドクラストしてアイゼンがよく効く処と硬い雪が割れて膝上まで潜る最中雪のラッセルに苦労しました。まるで雪と格闘している気分でした。少しでも高み高みへと目指して行くとこの蓼科山頂ヒュッテが有りました。入り口の雪をどけてやっと中に入ることが出来ました。中はすこぶる快適な小屋でした。蓼科山の山頂部は割りと平坦なので吹雪の中で小屋を見つけることが出来なければ・・・・・それはそれで大変だったと思います。
 ザックの中に一升壜を入れていき小屋で飲みました、夜半寒さで目覚め残りをラッパ呑みしたら水分が凍り歯にサラサラ氷が当たるのとで濃厚な酒を飲みました。もちろんすごく旨かったです。写真は翌日快晴で、ご来光を見た後小屋を背景に撮ったものです。Y先輩も若いですね。
 年末に何時も2人で山へ入ってましたがなぜか思い出は、吹雪の中ばかり一緒に歩いてる、印象が強いですね。


1976年(S51年)11月 初冬の御岳(生と死)

エビのシイポが付く剣が峰の鳥居
 昭和51年11月20日、午後名古屋を国鉄で出発し田ノ原より入山、田ノ原の樹氷がとても美しい。8合避難小屋内へテント泊。夜食後寝ようとしているとF大学の部員が、「百間滝側で誰か人かザックとか何かを見ませんでしたか?」と聞いてきた。聞くと王滝頂上から八丁弛の間に最後尾の人が百間滝方面は飛ばされたらしい。何も見ていないので「何も見なかった」と答えた。当時風が凄かったみたいだ。
 夜半に友を探して呼ぶ声が木霊して聞こえるので、応援を求められたらどうしようと、K・典くんと相談する。ザイルは有るが、新人訓練で入山しているのいで足手まといになると断ろう等考えていた。実際に助けを求められれば断れないが、要請は無かった。午後の入山時、山は樹氷が凄く付いていたのでその日の午前中までの山は大荒れだったのだろう。
 下山して来ると田ノ原では救助隊や報道関係者で、ごった返していた。その方は翌年6月滝の下で見つかったと記憶している。
 11月21日、当時の仲間と御岳山剣が峰。メンバー4人でしたが、1人の友は何年もしない内に他界した・・・・・・・今振り返っても悔いが残ることでした。
 残った3人は離れ離れだが、風の便りでは今も元気に生きている。


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