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1998年7月18日キナバル山

 33年前のことマレーシアのキナバル(4095m)へ登ってきました、古い写真をスキャンしてPCへ取込。昔を思い出しますえっもう33年も前か。HP自分の日記変わりなのでアップします HP始める前だな。1998年平成10年7月15日、小牧空港からクアラルンプールまで飛ぶ。ドンキーイヤー(ロバの耳)は現在は地震で耳が欠けた、下から見た左が欠けたそうです。
 今回は個人旅行友人Fさんとワシの2名、カリマンタン島では現地ガイドが案内してくれる。クアラルンプールの空港がなんかでかい広い迷うワシらおじさんの迷子。下手な英語でトランジットラウンジを聞いた教えてもらうが「ダウンスティ~アップステー~ダウンステイー」で行ってみるとそこは出国カウンターだ Customs 税関あるじゃあないか。違う通じていないや~階段上って下って元の場所へ。コタキナバル?って聞いたりしてヤット国内線乗り場へ着く。
 しかしチケットに書いてある時間になっても飛ぶ気配なし。うろうろしてると地元の若い兄ちゃんがワシのチケット見て「De late~デェ レイト」と教えてくれた「Thank youあ~De late」言葉を覚えた。遅れてるのか日本と違う。アナウンスも英語だ何言ってるのかチンプンカンプンだよ。約1時間半遅れて飛んでコタキナバル着ホテルチェックインはもう翌日の1時半だホテルはPROMENOT・HOTEL。翌日観光でシテイモスクとか首狩り族住居へ。日本語ガイド・カラーナさん。観光昼食後はキナバル山のふもとのロッジへ移動。
 7月17日晴れてキナバルがよく見える、朝食後車でパークヘッドクウォターへ。名前パスポートNOなど記入して手続きします。下山後登頂証明書をもらえます。
 17日登山ガイドと合流、ジプリン君20代歩いても汗をかかない。ゲートを抜けて登山開始今日は中腹のロッジまで、レストハスだった。ランとかの花が咲いて有名だが当時は目が上しか見ていなくて花の写真は撮ってない。
 笹薮のジャングルの中に1本道が付いてるもくもくと登る。小屋へ到着4人部屋へ、2段ベット2個で私ら2人と日本語ガイドと後一人は韓国の青年。韓国人は翌日登頂して直ぐ下山していきました。レストランでビール飲んで中華飯、ごはんの上に片栗粉の野菜が入ってる。豚肉やエビもなしの野菜だけの食事です。それも味がしない、3食これだったから飽きてしまう。テーブルに塩と酢が置いてある好きなように味付けを食べないと山へ登るエナルギーが付かない。
 たまたま西洋人が入ってきた半袖ポロシャツ毛むくじゃらな感じの方ですが体から湯気がボアッーと白くもくモクと上がってる。凄い生命力です、寒いって言ってる日本人。客は白人が多いそれと中国人(体格良い)、それに韓国人。2段ベットはマットと毛布1枚夜寒くて風邪気味。鼻水も。
スライドショー
 7月18日2時起床2時15分食事ライトを点けて3時出発あまり寒くない。星の光登山者のライト多数。4時20分SAYASAYA HATで休む水洗トイレ有。皆さんどんどん登っていき離される風強くない。遠くでフラッシュの光。1枚岩の上をロングロープが有り掴んで登る。
 6時00分ご来光山頂手前平坦地。山頂には60人ほどが鈴なりに集まってる。ご来光と共に皆さん下山していく。6時17分山頂狭いので6名程しか立てない交代で記念写真。
 西に海が見える影富士みたいな影キナバルも。7時40分HATで休憩する。他の人はすべて下って我々だけに。8時50分ラバンラトレストハウス着、食堂で祝杯をビールで乾杯ガイドはコーラで。イスラム教なので酒飲まんのか。ノートは海を見たと、しかし海を見た記憶が無いです。山頂から海を見たのを覚えてるのは利尻山と宮ノ浦岳に韓国の漢孥山。船が行きおると。
 補足:ほとんど忘れてるから記憶を呼び戻す為にGooglマップを開いてキナバルどこかな?とカリマンタン島サバ州を見る。目的地はコタ・キナバルである。ンすぐ近くにSandakan(サンダカン)を見つける聞いたことがあるな、コタキナバルは島の西側に有りサンダカンは島の東です。これも距離を調べると272キロある。東京~名古屋が約300キロこの島の大きさを思うと遠い。
 昔サンダカン八番娼館って映画が有った見てないが栗原小巻が出てる。サンダカンで検索すると有るわあるわ。戦争中日本軍司令部が置かれ英・豪兵の死の行進で知られる。ここだったんだ。Googlマップは直ぐ隣じゃん。
  
 検索で出てきた記録:抜粋。司令部従軍タイピスト高橋正子さん17歳、北ボルネオ・サンダカンへ派遣。17歳で志願したと昔の人は17で一人前です。
 昭和20年5月28日、海軍記念日の未明から、連合軍の大編隊による大空襲とサンダカン湾からの艦砲射撃により、サンダカンは壊滅しました。その日のうちに、軍隊もジャングル近くに退却、一般市民(日本人)は皆ジャングルに数名ずつグループを組んで逃げ込みました。
 遠くタワオやラハダト方面から転進作戦命令を受けた貫(ツラヌキ)兵団、家村部隊の兵士達の、餓死した屍が至る所に横たわっていました。また、サンダカン捕虜収容所にいた約2,000名の英・豪軍の兵士たちが、2月ごろから、アピに向けて旅立ったが、その死骸が白骨化し、草葉の陰に横たわっている道無き道を、泣きながら歩きました。 

 平和はボルネオ・カリマンタン島および太平洋で亡くなられた御霊の上に成り立ってる。この島も日本軍が占領してたんかと思いますね合掌。当時は何も知らないで山登りに行った。ボルネオ島は世界第3位の広さ本州は7位計算すると本州の3.4倍大きいです。飛行機から見るとジャングルばかリだった。
 ラバンラタレストハウスに もう1泊して翌日19日に下山後ホテルへ、いいホテルみたいだ。タンジェンリゾ-トスパ コタ・キナバルホテル5星だそうでプールもあるしロビーが吹き抜けで海の風が通り涼しい、プール脇のベンチで昼寝して日焼けした顔。

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